#005 [2023/10.20]

わたしたちの、このごろ

結局僕は、父のひいたレールから
外れることができないんじゃ
ないかって、すごく不安なんです。

末常生英さんIbuki Suetsune

2022年から市の職員として区役所に勤め、障害福祉の仕事を担当する25歳の末常生英さん。知的障害を持たれた方のサービスの受給者証を作成したり、療育手帳の申請や発行などの業務を行なっているという。

家族。それは誰にとっても
あるときには絶対的な心の支えになり、
あるときには解けない呪縛として自分の前に
立ちはだかるものではないだろうか?

末常さん:なにかの相談や申請をしに公的機関に行くのって結構腰が重いというか、エネルギーのいることじゃないですか。だから少しでも来てよかったと思ってもらえるような対応を心がけています。

やわらかい物腰でじっくりと人の話を聞く末常さんの姿勢から、きっとこれまでも不安な思いを抱えて区役所にやって来たたくさんの人に、安心感を与えてきたのではないかと想像できる。しかし、そんな誰かの「助けて」に寄り添い続ける彼自身が、本当は誰よりも今、助けを求めているのかもしれない。

末常さん:物心ついたころから、失わないために初めから持たない選択をしてきたような気がします。夢も持たないし、ものも欲しがらない。小学校の卒業文集で将来の夢を書く欄には、「バスケのインターハイに出て優勝する」とキラキラした夢を書いている子の隣に「その時できることをする」なんて可愛くないことを書いていたほどです(笑)でも今聞かれてもそう答えるんじゃないかな。

幼少期を振り返って彼はそう語る。多くを求めないという考えは、兄と父の姿を見ながらだんだんと彼のなかに根付いていったものだという。

なにかを望んでも否定されるなら、
なにも望まない方がいいと思うようになっていた

末常さん:兄には夢があって、やりたいことがあって、欲しいものがありました。でもそれを父に否定され、奪われる姿をずっと見てきたんです。僕の父は自分のルールを持っていて、そのルールに外れた行動を絶対に許さない人でした。常に自分のコントロール下に子どもを置きたがるというか。なにかを望んでも否定されるなら、なにも望まない方がいいと思うようになって、僕は兄が設けてくれた父を怒らせないボーダーラインを超えるためだけに勉強も部活もがんばっていました。

そのルールは彼の父にとって「子どもが道を外さないため」のものだったのかもしれないが、子どもにとって親の願いや想いは、ときに重くのしかかる。末常さんが進学を決めた高校や大学も、なにかやりたいことがあったというよりは、父の引いたボーダーラインより上だったからという理由が大きかったそう。

そんな中、大学入学後、父と離れて暮らすようになってからは、もっと自分のために生きようと努力したという。

末常さん:とにかく沢山の人と積極的に会うようにしました。自分を変えたかったから。これまで父という一種の敵を据えてずっと一人で戦ってきましたが、多くの学びや出会いの中でどんどん世界が広がって、以前よりは物ごとをポジティブに捉えられるようになったと思います。それでもやっぱりなにかを選択するとき、挑戦することよりも、多くを求めずに安定することを選んでしまう。結局僕はなにも変われていないんじゃないかと思うんです。

市の職員という仕事に就いてからも、
彼の心にかかった霧が
完全に晴れたことは一度もない

末常さん:幼いころからの諦め癖が定着して、本当にやりたいことが自分でもよく分からないんです。どうもがいても父のひいたレールから外れることができない。料理や珈琲、写真は趣味でやっていますが、仕事にしたいとまでは思えないし、公務員になって生活も安定して、それに安心してしまっている自分もいます。でも周りには自分の好きなことを仕事にしている人たちがゴロゴロいる。僕も僕にしかできないことを見つけたい。このまま生活を続けることにすごく不安を感じています。

しかし私はこう思う。彼はすでに彼にしかできないことを仕事にしているのではないかと。「自分にしかできないこと」というのは、その人の持つ経験や学びから生み出されていくものだ。たとえ同じ仕事をこなす人が複数人いたとしても、一人ひとりの経験や学びによってその向き合い方は全く違う。
たくさん

の痛みや葛藤を抱える彼だからこそ、理解できることがあり、寄り添えることがある。区役所という場所に彼がいて話を聞いてくれるだけで、一体どれだけの人が救われた気持ちになっただろうか。

編集部のまとめ

話を聞けば、昔からなにかと相談役になることが多かったという。それは普段から彼が周りの人のことを考え、思い、真摯に向き合っている証だ。

まだ自分では気づかないかもしれない。それでもきっとこれから彼は、彼にしかできない方法でたくさんの人たちを助けていく中で、いつか思うときがくるだろう。これは「ほかの誰でもない、自分にしかできないこと」なのだと。

STAFF
photo/text: Nana Nose